さようならは別れのあいさつじゃない
「朝のさよならは舌に残った煙草の味だ
シーツの皺、モーニングコーヒーのカップに沈んだ砂糖
そして何となく名残惜しく、そのくせ少しばかりの自己嫌悪が伴う
昼のさよならは笑顔でできる
すぐまた逢えるような気がする、だが
1番はっきりと二人をへだてるのは昼のさよならである
涙で火が沈んでからゆっくりとあふれでる
夕方のさよならは1匙のココアだ
甘ったるく、そのくせにがい
夜になったらまた二人は結びついてしまうかも知れないので
ひどく心にもないことをいって早くわかれてしまう
夕方のさよならはお互いの顔を見ないで
たとえば空を見たりすることがある
だから夕焼けの赤さだけが二人の心に残るのである」
寺山修司の「さようなら」にかける想いはとても真似できないし
僕にはまだ「さようなら」を語れるほど偉くもないし
僕はまだまだ「さようなら」を語れるほど誰かとさようならをしていないんだけど
それでも春は
ちょくちょく顔を出してくれてたお客さんが遠い街に転勤になったり
学校帰りに立ち寄ってくれていた若者たちがこの街を出て行ったりで
春ってのはなんとも、名残惜しさと切なさが伴う季節で
どんなに好きでもそれをつなぎとめておくことはできません
これから先は今までみたいに来る事も無くなるのかなーなんて思うとやっぱり少し複雑で
「離れる前に、最後にここに来たくって」なんて言われるとやっぱりとても淋しくて
でも反面、わざわざ最後に来てくれた事がとても嬉しいような気持ちにもなって
ちゃんと別れなんだけど、さようならじゃないみたいな感覚になります
さて次に来てくれるまでこの店は続いているのでしょうか?
「さよならだけが人生ならば人生なんかいりません」
0コメント